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1票の格差を語るならば、世代間の投票価値 格差是正こそが必要

2012/02/13 05:30

 

~シニアパワーから見る世代間格差~

 

このブログでは、東電、JR、そして中央省庁など、巨大な既得権益を持ち、競争のない環境に置かれている組織について記述することに力点を置いています。が、組織ではないものの、日本で巨大な既得権益を持つ集団の一つであるシニア世代 について述べてみます。

 

1月21日の日経夕刊にシニア世代60歳以上の年間消費支出が平成23年度に100兆円を突破し、消費全体の44%を占めているという記事が載った。44%がどこから算出されたのかは不明であるが、すると消費支出全体は約230兆円という計算になる。60歳以上人口は3960万人(平成22年)だから、1人当たり、252万円/年となる。(この数字は、ちょっと大きすぎる感がある) 日本のGDP(530兆円程度)における家計最終消費支出が293兆円(平成23年)であるから、そんなにはずれた数字ではないのかも知れない。

さらに、消費支出を耐久財、半耐久財、非耐久財、サービスと4分類すると、サービス支出が45~55%程度を占め、その比率は増加傾向にある。ここで、サービスには、家賃、外食、医療、教育、娯楽などが含まれる。
若い世代はシニア世代よりもサービス支出の比率が10%程度高い傾向にはあるが、これは主に外食と家賃支払いが多いことによるもので、若い世代が娯楽に耽っているわけではない。教養娯楽への支出の絶対額はシニア世代の方が大きいのである。

 

新聞の広告欄を埋めるのは、シニア世代をターゲットにした
国内旅行、海外旅行、健康食品アンチエイジング系化粧品、尿漏れも平気な老人向け衣料、利殖、墓地、仏像、はては戦艦大和のプラモデルを作ろうという広告まで。シニア世代向けのものばかり。ある日の新聞を調べて見たら、全36の紙面のうち、20面に上記のいずれかの広告が掲載されていた。もはや、新聞はシニア向け読み物になりきっている。
一方、Yahooのトップページなどのインターネット広告は、携帯、スマホ、自動車(新車ではなく安く買える中古車です!)、時々マンション、ゲーム、映画、コンタクトレンズ、ダイエット、彼女と貸切風呂できる温泉旅行などが占める。(スマホで彼女にメールで告白して、中古車をころがして、2人だけの温泉旅行にゆく、のが若者の生態?!)

フィットネスクラブも20から30代の利用は減り、50歳以上の会員が増加しているという。

 

昨年、私は久しぶりに平日に休暇をとって、伊豆の温泉に行ったのだが、観光地の売店、レストランを埋めているのは、シニアのおばさんばかりで、目を丸くせざるを得なかった。(なぜか、おばさんはおじさんの2倍以上の数) 客の80%は現役を引退した年金世代である。
そして、この人々が旅館やホテルに泊まってお金を落とすんだなあ、と感嘆した。もはや、国内の旅行産業は、シニア世代なしでは成り立たない。平日の空室を埋めるのはシニア世代が大半を占めるからだ。

都内で、メルセデスBMWのようなドイツ製高級乗用車にすれ違うたびに、運転者を観察してみると、運転しているのは、ITベンチャーで成功した社長、、、ではない。医者、弁護士、個人事業主風の人が多いのは変わりはないが、4人に1人はシニア世代と観察できる。そんなに、会社で出世して成功したシニアばかりが東京に多いのだろうか? 否、である。普通に会社員を勤め、部長や課長クラスで退職したとしても、ちょっと手を伸ばせばそのような高級車が買える。若い頃欲しかっけど買えなかったんだ~と、言いながらベンツBMWを買うことができるのである。
(まだまだ日本ではシニアがクラシックカーを手入れをしながらドライブする趣味は定着していない。)

 

いくつかの統計的事実を列挙しておくと、
・日本の金融資産の60%を60歳以上が保有し、80%を50歳以上が保有する(平成19年度)
・二人以上の世帯の1世帯当たり貯蓄現在高は1657万(平成22年) この内、60歳以上の平均は2500万円を超える(平成12年)
・二人以上の世帯について,世帯主が60歳以上の1世帯当たり家計資産額(純資産額)は6562万円(平成11年)
  内訳は、宅地資産3802万円
       金融資産が1966万円
       住宅資産が615万円
       耐久消費財資産179万円
 つまり、金融資産だけでなく、不動産資産でさらに若年世代との差は開く。
・二人以上の世帯について、世帯主が65歳以上(かつ無職)の1世帯あたり実収入は245千円/月(平成12年)。内、年金は217千円。企業年金加算で総計35万円以上の年金収入になるケースもある。これは若い世代の初任給よりも多い。

 

これだけではない。シニアにはお金を使わずに済むさまざまな社会的な優遇がある。医療費、公営住宅、交通費(鉄道・バス)、娯楽(各種の入場料)などなど。医療費と公営住宅が金額的に大きいが、映画なんて50代夫婦で行けば半額だ! 東京都の老人医療費助成制度は平成19年6月末で廃止されたが、それまでは医療費はただみたいなものだった。これらの割引は20代には適用されない。

 

豊かな老後が過ごせるというのは、とても良いことではあるが、世代間の格差がこれほどまでに存在すると、その豊かさは世代間搾取によるものと認定せざるを得ない。正確には若い世代の「未来の犠牲」に基づく豊かさである。なぜなら、シニア世代は、子供をそう沢山は作らず、つまり未来の世代を育てることにコストをかけずに貯蓄をし、しっかりお金を蓄えているのに、さらに自分達の年金を少数の子供達に払って貰っている。しかも、この過程で作られた膨大な国の借金を返すために、税金は若い世代にもしっかり払って貰おうとしているのだから。

 

この状態を変えるには、生前贈与などの枠を広げるといった小手先の立法施策も必要だが、根本的には、若い世代の意見が政策に反映されるように政治の仕組みを変えなければならない。既に、世代間の一票の格差については、多くの論者が問題を提起している。この格差は、

1.年代別の人口比
2.年代別の投票率
3.地方選挙区と都市部の高齢化率の違い
4.年代別の投票数における死票の比率

1×2×3×4の掛け算で生み出される

試みに60歳代と20歳代を比べると、
1については、   1838万人:1392万人 = 1.32 : 1
2については、   85%   : 50%    = 1.7   : 1

3は、1票の重みが都市部に比べて高い地方選挙区において、より高齢化が進んでいる※ことによって生まれる格差である。
65歳以上の比率が高い県と低い県では、27%と18%であり、仮に1票の格差が2:1とすると、
             27*2 + 18*1  18*2 + 27*1 = 1.14 : 1
(中央と地方選挙区における一票の格差は、最大で衆院で2.4倍、参院で5倍となっている)
1×2×3で、   60代 : 20代 = 2.56 : 1  となる。

ここまでで、60代は20代の2.56倍の政治的パワーを持つと試算される。
4では、若年層の投票行動において、死票となる比率は、シニア層の何倍であろうか? 若者に国費留学を、とか若年層の雇用を義務化しろ、ベンチャー企業の優遇税制をといった政策を唱える候補者がいたとしても、まず当選しない。選挙の争点は、年金、福祉、医療といった政策ばかりになる。若者世代の死票の比率は、小選挙区においては数倍に達するかも知れない。
さすれば、最終的に意見が当選者という形で政治に反映されるのは2.56:1どころではなく、5:1から10:1の格差に達している可能性がある。


人口ピラミッドならぬ、有効投票ピラミッドは、台のないワイングラスの形に近い。つまり、選挙ではシニア層の意見が勝つような仕組みができあがっている。これは法の下の平等とはとても言えない。
(ちなみに、70歳以上は、平均寿命の長い女性のパワーが高くなるので男は分が悪い...)

 

民主でも自民でもない第3局が生み出されるのは必然のことであって、これを一過性のものではないパワーにするには、選挙制度の改革は不可欠である。

1.年代別人口比による補正をかける
2.投票率改善のための投票制度を改革する(流行の言葉で言えばスマホで投票!など)
3.地方と都市部の1票の格差を是正する
4.中選挙区や比例代表を増やす
を総合的に実施する必要がある。

1は、例えば20代の有権者の1票を1.32票分と補正計算をすることを意味する。これを実施すれば、個人毎に見れば1票の格差を作ることになるので、法の下の平等に反するという学者もいるだろう。しかし世代という塊単位に見れば、法の下の政治的な発言権の平等を生み出すこととなる。人口がピラミッド型であったならば、実質的には勤労世代が一番の発言力を持つが、それが釣鐘型になり、逆ピラミッド型になれば、未来の長さが短い(人生の残りが少ない)リタイア世代の意見の比重が過度に高くなることになる。

高齢者の意見ばかりが反映されると、消費税率を決めるにも、高齢者が使途とする医療費や食費は免除といった施策ばかりが優先され、若年世代が使途とする家賃や外食費には消費税がかかる、といったいびつな政策が実施されることになりかねない。
シニアには持ち家がある。若者は、家賃を払って住まなければならない。しかし、賃貸住宅を建てる建材には消費税がかかるから、大家さんはそれを家賃に転嫁せざるを得ない。

 

もちろん、課題はある。
投票箱に入るのは、無記名の紙切れである。箱に入ってしまえば、すべて1枚1票と数えるしかない。1を実施するには、世代別に投票用紙を分け、かつ用紙の違いを自動集計する機械が必要になるだろう。これは選管の手間を大幅に増大させることになる。また、ネット投票を実施すれば、投票行動というプライバシーの保護という問題も発生する。有権者の本人認証と、プライバシーの保護を両立させなければならない。

しかし、そのような問題があってなお、選挙制度の改革は、もはや待っていられない喫緊の課題であると思う。金は掛かっても実施すべきである。

4については、衆議院の定数(小選挙区が300、比例代表が180)を比例議席を中心に削減しようとしようとしているのは、高齢化社会のひずみ是正要請に逆行する施策である。消費増税の見返りに衆院の定数削減をする、などという理屈は合理性を全く欠いている。所詮、国会議員を多少減らしたところで予算削減は微々たるものだからだ。国会議員自ら身を切る態度を示すべき、といった精神論だけの施策は止めなければならない。


高齢化社会が生んだシニア世代の既得権益、これを是正しなければ、日本の未来はないだろう
是正を進めるには、選挙制度から改革しなければならない。
シニア世代自身も、若者も、男も、女も、、、日本人ならば、是非、この議論を深め、意見の広がりを大きくするように行動しましょう。


※ 統計局

http://www.stat.go.jp/data/chiri/map/c_koku/nenrei/index.htm

http://www.stat.go.jp/data/topics/171-3.htm

などを見ると分かる。

 

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震災番付 ネットメディアとマスメディアに登場した原子力専門家の存在価値は?

2012/01/05 05:00

 

震災番付 前頭八枚目

 

東 《機能したもの》 インターネット上での原子力専門家(大前研一等)による解説

西 《機能しなかったもの》 マスメディアが招聘し、テレビ出演した原子力専門家達 

 

震災直後から、夥しい量の、原発についての解説報道が流れた。地上波のテレビはもちろんのこと、インターネットのYouTubeやUStream、FacebookやTwitterも主要な情報源だった。
結論から言えば、インターネット上の情報は、テレビ解説よりも豊富、多様、かつ的確だった。震災は、日本のマスメディアの化粧をはがし、ネットの価値をまざまざと見せつけた。

3月11日以降、地上波の報道番組に入れ替わり立ち替わり出演した原子力専門家達の発言はいったい何だったのだろうか?
「圧力容器が爆発した訳ではない」「圧力容器の外側にさらに格納容器があるので安全だ」「全体は、厚さ数メートルのコンクリートに覆われています」と原子炉の構造を解説し、「メルトダウンという状態までは至っていないと考えられます」「チェルノブイリの事故とは、まったく性格が違います」「検出された放射能は、ただちに健康に被害が及ぶ量ではありません。航空機に乗っても同じ量の放射線を浴びます」の連呼だった。どのチャンネルでも、登場する解説者は異なるものの、判を押したような説明の繰り返しであった。
しかし、それらの解説は、今日、まったくの嘘であったことが、明らかになった。

原子力安全・保安院は3月12日午後2時、1号機で原子炉の心臓部が損なわれる「炉心溶融が進んでいる可能性がある」と中村審議官が発表した。にもかかわらず、同審議官は更迭され説明内容は溶融表現を使わない形に後退した。
原子力安全・保安院は4月18日になって、1号機から3号機の原子炉で燃料棒の溶融が起きたとの見解をまとめ、原子力安全委員会に報告した。それまでは、燃料の損傷した可能性は認めていたが、溶融は認めていなかった。
東京電力は5月12日、1号機の原子炉圧力容器で、冷却水の量が少ないため完全に水から露出した核燃料が過熱して容器底部に落下し、直径数センチ程度の穴に相当する損傷部から水が漏れていると見られると発表した。東電は、この状態が「メルトダウン(炉心溶融)」であることを認めた。但し、この段階では、燃料の大半は圧力容器内に残っているという説明だった。
11月30日になって、メルトダウンが起きた1号機の燃料は、鋼鉄の原子炉の底(=圧力容器)を突き破って相当の量が格納容器に落下し、格納容器の底の厚さ1メートルのコアコンクリートを溶かして最大で65センチ浸食していると推定される、と報道された。これは東京電力がプレスリリースしたものをそのまま流しているだけであり、元資料は東電のHomepageに掲載がある。

http://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/images/handouts_111130_07-j.pdf
最初は溶融すら認めていなかったのであるから、「科学的には説明がつかない説明内容の変化」である。

冷却が完全に停止した時の核燃料の崩壊熱量と、冷却のために注入できている水量を比較すれば、電源喪失から1日も経ない時間帯にメルトダウンが始まったことは、専門家であれば容易に推定できることだったのである。ならば、溶け落ちてしまった核燃料の状態推定は、その後の冷却方法や放射能の漏出対策の立案に必須な分析である。しかし、その分析に事故から8ヶ月もかかるとは、いかなることであろうか? この点について東電から反省の弁がまったく無いのは、信じられないことである。

ちなみに、途中の時期、4月25日には、保安院と東電の外国人向け記者会見場は、参加記者ゼロ人という事態になった。世界中からの笑い者といわれても否定できない。この機関の発表内容は情報ソースとして価値がないと判断されていた訳である。

 

しかし、それでも、日本の記者達は、その会見内容を喜んでメディアに流し続けた。東電のプレスリリースそのままを流し続けた。

 

一方、大前研一氏は、自身が創設したビジネスブレークスルーというインターネット大学院の講義として、解説を流している。(YoutubeにもUpされているタイトルは、東日本巨大地震 福島原発半径20km以内の住民に避難指示(3月13日収録))、福島第一原発 現状と今後とるべき対応策 (大前研一ライブ580)などである。)

そこで述べられている内容は、首相よりも、どの大臣よりも、どの役人達のそれよりも、的確である。制御不能になった直接的な原因、根源的な原因である設計思想の問題点、繰り返された人間系の判断ミス、水素爆発が十分に想定できること、3号機も水素爆発の危険があること、放出量はレベル6には達していること、食料品の汚染など社会的な問題が拡大すると予想されること、東電の賠償金額が膨大になること、福島の事故分析に基づき他の原発で採用すべき具体的な施策があることなどなど。

驚くなかれ、3月13日の時点で、ここまで正確に福島第1原発の状況を把握できていた訳である。

海外メディアのビデオも多数Upされているので、海外が福島について、どのように報道しているのかが分かる。3月下旬頃には、メルトダウンの可能性が大であるのに日本政府は事実を隠していると指摘する報道多数。日本の報道よりも、客観的で、真実を突いている。

考えてみれば、3月13日の時点でネットにこれだけ正確な情報が流れているのに、記者、制作スタッフ、資金、全てにおいて潤沢なはずの地上波局が、その内容で劣っているという状態はあってはならないこと。

しかし、ここまでの報道プロセスにおける本当の問題は、報道内容の誤謬という表面的な問題ではなく、根っこに存在する「本質的なResponsibilityの欠如(=無責任体質)」だと考える。
 

第一の無責任は、政府は、ここに至っても、国民に対する説明責任を引き受ける覚悟がないことである。原発事故直後は、「官邸にまず報告しろ、テレビに先に情報が流れるのはけしからん」と言っておきながら、政権に都合の悪いことになると、保安院や東電が発表した形にして済ませようとしている。
11月30日におけるメルトスルー報道においても、政府は、東電に発表させる形をとり、なんら説明責任を果たしていない。結局、閣内の誰も責任を引き受ける覚悟がないのか? これが国民を守る政府と言えるのであろうか?

第二の無責任は、マスメディアも何ら報道内容の責任を取っていないということである。恐らく(政府からの)情報統制の要請を受けたのであろうが、テレビ出演した学者達の発言であったという形を取ることによって、報道内容に関する責任を巧妙に回避している。(当時の学者達の発言は、Youtubeを探してもほとんど見当たらない。片っ端から削除されているのであろう。)
さらに、今日に至っても、保安院や東電の会見やプレスリリースを右から左に流すだけであり、そこには分析も考察も加えられていない。そもそも、3月11日以降、情報収集力においても分析力においても当事者能力ゼロであった東電と保安院である。その無能さを露呈した機関のプレスリリース(11月30日付)を、そのまま流して、それが報道と言えるのであろうか? 報道機関としての最低限の付加価値を加えて貰いたいものである。ここでこそ、原発学者達を出演させて解説を加えるべきである!

第三の無責任は、テレビという仕掛けによって巧妙に支配されている国民自身にある。テレビ特有の、視聴者心理の操作方法は、複雑である。戦前であったら、戦意高揚のための明快なスローガンを叫んでいた単純さがあったが、テレビ時代は、心理操作の方法がはるかに巧妙になっている。(その点については今後述べる。) そして、日本人は気分と情緒に合う報道を喜びたがる傾向が強くある。自分の言動や行動に責任を持っているとはいいがたい。福島はレベル7じゃないんだ、と思いたい気持ち、放射能の恐怖に対しちょっとでも安心したい気持ちに付入る報道によって、真に多面的な考察を加えるという思考を失っているのである。

 

内輪の政争にあけくれる政治家と、利己と保身の結果として国民に真実を伝えることを恐れ問題の先送りを繰り返す政府、その政府に従属するマスメディア、マスメディアの醸し出す空気に支配される国民、
これら3点セットの存在は、残念ながら敗戦前の日本から、あまり変わっていないことに気付かされる。

海軍と陸軍の派閥争いと決断の遅れ、その結果、都合の悪い戦況を隠蔽し続けるしかなくなった政府、これに従属し大本営発表を右から左にたれ流し続けたマスメディア、鬼畜米英・一億玉砕と思考回路を単純化して自力で判断しようとしない国民(の空気)、が存在していた。(もちろん、その時代でも良識ある人々は多く存在していたのであるが)
国家の危機レベルの相違はあっても、構図はほとんど同じであったのではないだろうか?

 

我々は、震災以後の国づくりにおいて、繰り返し現れるこの構図を打破することを真剣に考えなければならないと思う。
まず、国民は、日本政府と、大手マスメディアに対し、強い怒りの声をあげるべきである。

・政府は、保安院や東電の発表形式でごまかさず、首相や大臣が、事故の分析結果を自らの言葉で語るべきである。

・メディアは、3月時点の原発解説報道は間違っていました、事実と異なっていました、と頭を下げて謝罪報道をするべきである。

2011年12月26日に、野田首相が行った原発事故収束宣言に対して、納得できないという意見が多数であるのは当然の反応である。溶けた燃料の状態が、いまだに分かっていないのだから。

・さらに、我々国民は、地上波のバラエティ番組の視聴に費やす時間をちょっと減らして、YoutubeやUstreamの視聴時間を増やそう。リビングのテレビはどんどんネットにつないで、世界中のコンテンツをLiveでもOnDemandでも観れるように普及させるべきである。
(できれば英語の放送は自動翻訳してキャプション付きで流して欲しい。)

ネット上に、良識ある人々から発信された良質のコンテンツが豊富に流れ始めているのは、ホントに明るい兆しである。
テクノロジーは、情報の流通に革命を起こすと信じたい。その第一歩は、既存のマスメディアにNo!を突きつけ、多様な情報ソースにアクセスすることである。

 

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壊れゆく公と、弱々しく彷徨う私

2011/12/04 05:09

 

今日は、ちょっと息抜きの文章を。法事などが続いてブログの更新が遅くなりました)

公私の混同、公の概念の希薄さについて、11月7日のブログで述べました。

日本企業が、全社員参加の大運動会とか、家族も参加するリクリエーションを催していた時代には、会社という公の場でも、家族という私的な関係を持ち込むことが許され、それがちょっとした楽しみでもあった。
家族ぐるみで上司の家に行って酒を飲んだり、上司の奥さんの手料理を食べ「おいしいですねえ~」とか「奥さん、お綺麗ですね~」とかご機嫌を取りながら、迷惑も省みず徹夜マージャンをやったりもした。
会社に帰属している社員が、大きな擬似家族のような心理的結合が醸成されていた。「○○君か、あのとき飲んで騒いでたやつだな。仕方がないな。嫁さんでも探してやるか!」 その結果、職場結婚も多かった。その心理が、会社への忠誠心や、仕事の熱意へとつながっていた時代があった。
時を経て、職場での慰安旅行が自然消滅し、大運動会も中止になり、サラリーマン(ウーマン)は仕事が終わると、それぞれのプライベートの世界を大事にすることが流行となった。働く女性が増えて、公(=男の世界)、私(愛すべき女性の世界)というコントラストが無くなって来たことも影響があるだろう。
当時は、個人主義の浸透だ、とか、プライベートを大事にする欧米流の価値観が定着した、などと言われた。「彼氏と付き合うなら、社外の人にする~! 社内恋愛なんてダサい!」と職場の若い女性が言うようになった。

しかし、この変化は、本当に日本人が欧米人のようになったことを意味するのだろうか?

皆さんに、考えさせられる小話を4つご提供します。

 

小話1
部下から「A君から退職願いが出ていて、手続きについて教えて欲しい」と相談があった。あ~またか、と思いつつ、退職の理由を聞くと「彼女が韓国人で、一緒に韓国で働くことを決めたようです。向こうの会社に就職するらしいです。」 「へえ~、給与水準は下がると思うけど、思い切った決断だね。」 私は受理して、退職手続きを進めるように指示した。
その4日後。
部下から「A君のことなんですが、家庭の事情が変わってやっぱり辞めるの止めたんだそうです。」 「辞めるの止めた!? (絶句.........)本当に続けて働く気はあるんだろうね?!」
会社に退職願いを出すことの重大さが分かっているのだろうか? 彼女との生活とか、親の介護とか、私事を100%固めてから、会社に意思を伝えてね。

 

小話2
部下のB君。頭は良いのだが、仕事に100%のエネルギーは注ぎ込まず、いつもそこそこで家に帰ってしまう傾向がある。ちょっと体調が悪いと休みがち。
そのB君、ある日のこと、出社するなり上司のところに来て「どうも家でぶつけた後に痛いなあと思って医者に診てもらったら、足の指の骨にひびが入ってたんですよ、痛くてかなわんです~(にこにこ)」と、実に嬉しそうに身の上を語った。昔だったら、少々具合が悪くても、職場でそんな弱みを見せたくないと強がったものだが、今はまったく逆。
風邪をひきました~、とか、頭痛がします~、とか、自分を慰めてもらえるネタを、実に嬉々として職場で披露する。日頃、上司に仕事の進捗の報告はしなくても、、そういうことは率先して話に来る。聞く方は大変だ。

 

小話3
職場満足度向上の使命もあるC課長が、部下を集めて宣言した。「いいか? 悩みとか相談事があったら、いつでも、何でも俺に相談に来いよ!」
その数週間後、C課長の携帯電話が午前4時に鳴り響いた。眠い目をこすって見ると部下からだった。「C課長! か、か、彼女にふられて.....今日、出社できません(泣)」
余程、相談し易いタイプの課長だったのだろう。.....C課長は、よろず相談係になってしまったことを後悔したに違いない。

 

小話4
ある職場で、部下から忌引休暇の申請があった。上司が、「どうしたんだ? 大丈夫か? 忌引休暇なんて、、」と聞くと、部下は「飼っていた猫が死んだんです(泣)」
「(絶句........)猫では忌引休暇は取れないよ、、、」  今の時代、本当にペットは家族と同じなんだね。今後は就業規則に、ペットは含まずと明記するのかな。

 

以上のお話4つは、全て、ここ半年以内に起きた実話である。


考えてみれば、昭和世代が、公私の混同をしていた訳ではないのだ。公という会社の世界と、私という家族の世界の違い、コントラストは、極めて明解でありながらも、あえて、公の場に私を持ち込むことによって、公の心理的な窮屈さを和らげ、人的なつながりを強くすることに重きをおいていたわけである。意識してやっていたのである。
一方、平成世代が、仕事だけに人生を捧げるのではなく、それぞれのプライベートな時間を大切にするようになったのは、豊かになった日本社会の必然の流れだとしても、欧米流の個人主義とは、何か本質的な違いがありそうだ。
彼ら/彼女らは、無頓着に、公の場に私を持ち込むのだ。公私の混同度合で言ったら、昭和世代よりもむしろ、けじめがなく、なし崩し的である。会社に「僕を守って~ 僕を養って~ 僕を癒して~」とでも期待しているのだろうか? 上記4つの小話において、会社の上司は、家庭のなかでのママ(お母さん)に置き換えても違和感が無い。
私が、公私の混同というレベルではなく、公の概念が壊れている、と思う所以である。そもそも、私という絶対的なものが存在するのではなく、公という概念があって、その対比で存在するのである。
その公が無いので、公の中での自分という心構えが出来ておらず、家庭の中での振舞いそのままを素直~に表出しているのである。ホントに素直なんだね。
一部の政治家においても、これに類する振る舞いが見られることは既に述べました。

皆さんはどう思いますか? (End)

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総理の立場は意外とむずかしい、と表現した前首相

2011/11/07 10:00

 

総理の立場は意外とむずかしい、と表現した前首相


前回のブログで、人々の上に立つ人間としての心構え、高潔さ、志、抑制された利己心、自己と公の関係を深く考える能力、こういった精神的な価値を再評価することが必要と書きました。

また引き合いに出して申し訳ないが、菅前首相は10月3日に四国のお遍路を再開した。それに同行した記者によれば、
「いま検証しているけど、残念ながら3・11以前の準備がまったくできていなかった。(外部電源喪失は)想定外なんかじゃない。昨日まで自民党がやってたからなんて、さすがに言えない。みんな総理大臣になりたがるけど、なった途端、全部自分の部下(責任)だからね。意外と難しいんだ、あの立場っていうのは」と述べた(※)。
前総理大臣として(辞任から2ヶ月も経たない時期に)、あまりにリーダの自覚を欠く発言である。しかし残念ながら、これがこの首相の本音であったということである。
一国のリーダたるもの、過去の自民党時代のものであろうとなかろうと、全ての責任を背負わなければならないし、だからこそ、権限を与えられるのである。責任と権限の一致こそが統治の根幹である。
「意外とむずかしいんだ、あの立場は」、というが何が難しいというのだろうか? あの立場が難しいのは、自民党時代の責任だと言って逃げ出しもせず、さりとて自分の責任にならないような指示の形を考え、自分の名声をいかに効率的にあげるか、と利己心ベースで考えているから難しいのである。全ての責任を引き受ける覚悟があれば、何も難しいことはないではないか。

結局、原発事故の最中にあっても、「自分の部下」の責任を引き受けることを腹の底では忌諱していたということである。民間企業であれば、社長就任時に、「前社長が会社の業績を悪化させやがって」と思うこともあるだろう。しかし、社長の本音が、「(前社長時代の)社員がやったことの責任引き受けたくないです」では会社として機能するはずがない。(※酒もはいった私的な場での発言であり、これで首相時代の業績を否定するつもりもない。)


アメリカ大統領は、その就任時に、
「I do solemnly swear that I will faithfully execute the office of President of the United States, and will to the best of my ability, preserve, protect, and defend the Constitution of the United States.
(アメリカ合衆国の大統領という職務を忠実に執行し、できる限り最大の努力をして、合衆国憲法を維持し、保護し、守ることを誓います)」
と宣誓する。さらに、オバマ大統領は、就任演説の冒頭で、こう語った。
「国民諸君。私は、任務を前にして謙虚な思いを抱き、諸君から受けた信頼に感謝し、先人が払った犠牲を心に留めつつ、今日この場に立っている。
ブッシュ大統領の我が国に対する貢献、並びに政権移行期間中に示した寛容と協力とに感謝する。
只今までに、44名の米国人が大統領就任宣誓を行った。その言葉は、繁栄という高波や平和という凪の中で語られたこともあった。
だが、垂れ込める暗雲や吹き荒れる嵐の中で行われた宣誓もあった。こうした時に米国は、政府高官の技量と展望の故のみならず、 我々人民が先達の理想に誠実であり続け、かつ建国の文書に忠実であり続けたが故に、乗り越えることができたのである。
米国はずっとそうしてきた。我々の世代も、同様にしなければならない。」
たとえ、共和党から民主党へ、という政権交代が行われようとも、前政権の努力に敬意を払う言葉を忘れてはいない。日本の総理大臣の言葉は、高貴さに差がありすぎる。

日本も、国会で首相を選出したときに、「首相の心構え」を天皇陛下ご出席の国会の場で、「宣誓」させるようにしたらどうだろうか?

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震災番付 被災地訪問、天皇陛下と菅首相の違いは何か?

2011/11/07 01:00

 

震災番付 前頭九枚目

東 《機能したもの》 皇室による被災地への心のこもったお見舞い

西 《機能しなかったもの》 菅首相の原発見学と被災地訪問

 

天皇陛下について追記しました(11月6日)


天皇陛下、皇后陛下は、ご高齢にもかかわらず、3月から9月までに累計10回も被災地を訪問している。
(Source http://www.kunaicho.go.jp/activity/daishinsai2011/gohomon/gohomon-1-2011-01.html
特に、3月30日から4月27日までは5週連続で避難所や被災地に足を運ばれている。これには、敗戦に心沈む国民を励ますため全国を巡幸された昭和天皇の姿が重なる。宮内庁の羽毛田信吾長官は「震災、津波に遭った人たち、原発におびえる人たちを思いやり、頭がいっぱいになって、たいへん気が張っていらっしゃる。この国の人たちの幸せも不幸もわがこととして受け止めて、実践していかれる姿が現れていると思います」と語っている。開かれた皇室を演じるパフォーマンスだとか、警備が大変だ、という意見もあるにせよ、国民と同じ目線に立って自分の苦難と受け止めて、多くの被災者に一人一人に丁寧に声をかける姿は、素直にありがたい、と受け止めることができる。
陛下のお気持ちに裏表が無いことが滲み出ているからであろう。

11月6日に天皇陛下が風邪による発熱で入院されたとのこと、やはり被災地訪問も含めた過密な公務スケジュールでお疲れがたまったのかも知れない。ご快復を祈るのみ。 

なお、宮内庁のホームページでは、天皇陛下のお言葉をビデオで拝聴することもできる。インターネット時代ならでは。15年前には考えられなかった情報アクセシビリティである。

http://www.kunaicho.go.jp/activity/daishinsai2011/okotoba/index.html

 

 

一方で、菅首相の行動はメディアだけでなく、避難所に居た一般人からも批判されるばかりで、有難かったという声を聞かない。

百聞は一見にしかず。リーダが現場に立って、自分の目で見ようとすることは、一般論では正しい。しかし、原発は特殊な事故現場である。首相が見学したのは3月12日午前7時30分。所詮、放射線の危険で現場に近づけないし、原発建屋を外から見ても中で何が起こっているのか観察することができない。つまり、視察は状況把握には何の役にも立たないのである。そんなことよりも、情報を集約するルートを作り、対策立案のための組織をつくり、英知を結集するための人選をすることが優先であったはず。
しかし、この首相は見学にのこのこと出かけた。この行為は、火事場に「俺も現場を見たい」といって野次馬しに行ったようなものである。首相の現場とは、福島ではなく官邸である。その現場をほったらかしにして、視察に行っていた罪は重いといわざるをえない。
首相は退任にあたっても、「震災や津波の視察と合わせて東電福島第1サイトに出かけて、現場の責任者である所長にも会えて、意見交換ができたことは、私はその後のこの問題の取り組みに大変大きな意義があったとこう考えておりまして、そうした意味では、非常に意味のある行動であったと私自身は思っています」と述べている。現場の所長に会ったプラス面があることは否定しないが、自分が留守にしたことによるマイナス面の方がはるかに大きかったことが認識できないのであろうか?

また、首相の被災地訪問も、現場の真の状況、被災者の短期的、中期的な要望をすくい上げることが目的であれば、正しい行動である。
発すべき言葉は、「何に困っていますか?」、「避難所を出て住む場所はありますか?」、「健康維持に苦労する点は何ですか?」「生活の再建に向けて必要なものは何ですか?」という現場のニーズを探る質問である。しかし、この首相は被災地を訪問して、被災者に対して「頑張ってください! 菅直人も頑張ります」と言って回った。これは、まるで選挙活動である。結局、自分の票のために被災地を訪問したのかね。
国家の非常時においてさえ、一国の首相が、被災地訪問の目的を履き違えた行動をしているとは、ジョークであって欲しいと思うような、あり得ない話である。

4月21日、体育館でダンボールで囲んだだけのスペースで暮らす被災者のそばを通り過ぎようとし、被災者から「もう帰るんですか」と冷たい質問を投げかけられた。この発言は、首相に対する言い方としては失礼すぎる、との批判もある。しかし、そもそも、たとえ自分のそばを通りすぎる存在であったとしても首相が来てくれてありがたい!、と感謝の念をもって見られないのはなぜか? それは、仮設住宅の建設が十分か不十分かといった表面的な事象によるものではなく、被災地訪問が見舞いに行ったという事実をつくることが目的であり、本当に被災者を不憫に感じて、何かできることを見つけることを目的にはしていない、と見透かされているからである。首相でありながら、自分の身を捨てても国民を救いたいという志は乏しく、腹の底では、自分の政治生命や栄誉という利己的利益の追求ばかりを考えているということが、見抜かれているからである。そして、本当にその通りになってしまって、首相の座に8月まで居座りを続けた。

機能したものと機能しなかったものの本質的な相違は、頭の良さとか能力の優秀さではなく、人間性の尊さというべきものだった。

国のリーダは、自分よりも国家と国民のことを常に優先して考えられる志の高さが必要であろう。マスメディアは菅首相の資質という言葉を使っているが、菅首相も、この世代の日本人の一人に過ぎない。資質という曖昧な言葉で個人の人格に帰して終わるべきではなく、日本全体の問題と捉えるべきであろう。


その根っこにあると思う問題を2つほど挙げてみる。

一つは、この年代の民主党政治家達の世代的な価値観に一因がありそうだ。国家とか国民とか、全体を統括する言葉や概念、全体を束ねる抽象的な理念を、腹の底では信じていない傾向が強い。所詮、社会の営みは個々人の私的な利益の追求の結果でしかない、という冷めた価値観が、彼らの言動を支配している。
この価値観は菅首相の就任時の、「最小不幸社会の実現を目指す」という言葉に端的に表れている。国民(=全体を束ねる概念)の幸福増大を目指すのではなく、あくまで個人個人の不幸を、ひとつずつ無くせば良いのだという考えである。従って、その政策は、個々の不幸を小さくするもの、例えば老人には医療費助成を、農民には補助金を、子供を持つ家庭には子供手当を、というそれぞれの不幸を小さくする施策が羅列されることになる。国家の骨格をいかに強固にするか、日本人全体がいかに活力ある状態を取り戻すか、という大局的観点の政策は出てこない。
だから、彼らの政治においては、特に外交において、国家 対 国家という、国全体を擬人化して物事を考える能力が乏しい。俺はどうなる、あいつはどうなる、というミクロな国内調整が先に気になって、内輪の喧嘩に興味が向いてしまう。

日本が、中国や米国と対峙している時にすら、日本側の結束を乱すことを平気でする。例えば、日本が国益をかけて中国と対峙している最中に、そのリーダの足を引っ張るようなことをマスメディアの前でしゃべってしまう。だから、足元を見られ、最初から日本はここまで譲歩するだろうと見透かされる。
首相がTPP交渉に参加する方針で臨んでいる最中に、同じ党内で「絶対反対!」と言い放って居座りを決め込む民主党員も多数。この政治屋達は、批評はすれど、党内の意見を一本化しようとか、まとめる努力をしない。言い放って終わりである。これでは有利な条件交渉などできるはずもない。

これは思想が右寄りだ左寄りだという単純な問題ではなく、統合する、団結する、まとまるといったことに対する感性の欠如と言うべきである。

 

もう一つは、日本人が、幼い自己愛から精神発達できていないのではないかとの疑いである。人間は幼児から大人になる過程で、集団や組織の中で、自分を相対化してみる必要性に迫られ、自己を客観視する訓練を受けるのであるが、その精神的な発達が未熟な大人が増えているのではないか。

最近、会社の中でも、公私の区別ができない社員がいる。お客様の前でも、会社の利益と相反するようなことを平気でしゃべってしまう社員がいる。例えば、自社の製品を説明している時に、お客様の前で「でも、うちの部門長は、本当の価格を出してないですよ。私は言ったんですけどね。」とか。自分が今、公の立場として何を背負っているのかを理解し、それを踏まえた行動ができない。お客から自分だけ気に入られようとする。自分の置かれた立場を踏まえて、語ることができない。公私の混同というレベルではなく、頭の中には、そもそも公がなく、私しかないのである。

首相も、辞めるときに、なお自己愛発言を続けていた。「厳しい環境のもとでやるべきことはやった。一定の達成感を感じている」「私の在任期間中の活動を歴史がどう評価するかは、後世の人々の判断に委ねたい」と。本当に日本国民の行く末を心配してるならば、自分が成し遂げられなかったこと、後継に委ねたい課題を具体的に語って終わるべきである。「復興基本法は成立したが、国と自治体の役割分担はなお詰めなければならないことが多い、心残りであるが、是非後継首相に具体的な立法化を進めて貰いたい」とか。されど、結局、自分に対する評価の方が気になるようである。大人の言葉で表現しているのだが、子供の卒業文集のようである。「僕、とっても一生懸命頑張ったんだよ。お父さん、お母さん、後でもいいから僕を褒めてね」と言って首相を辞した。(企業の社長が辞するとき、僕の業績は後世の評価に委ねたい、などと言うであろうか?) 

冷静に考えれば、国の中枢を担っている人材までもが、ここまで劣化しているとは、本当に深刻な状況ではないか? 国民はこの状況に慣れて麻痺してしまっているようだが、本質的におかしいものはおかしいと声をあげなければならない。
我々は、人々の上に立つ人間としての心構え、高潔さ、志、抑制された利己心、自己と公の関係を深く考える能力、こういった精神的な価値を再評価し、この価値を有している人が評価され、選ばれていくような制度と仕組みを作って行かなければならない。

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放射性物質の放出量は、再検証が必要

2011/10/31 05:00

 

放射性物質の放出量は多面的に検証が必要である

 

10月17日のブログで、原子力保安院による海洋への高濃度汚染水の放出量が、正確に確認されていない楽観的な前提条件による試算であることを述べました。
海洋への流出は4月1日から4月6日午前5時までの6日間だけ、しかも漏水が発見された縦坑以外に出している穴がないと推定している。(そもそも止水に手間取ったことは既に述べた)

 

科学者であれば、当然、他の測定データも使った多面的な検証が必要と考えるのが当たり前である。しかし、その検証は海外の学者から出てきている。(10月28日の日経夕刊)

 

一つは、フランスの放射線防護原子力安全研究所が10月27日に発表したものであり、3月21日から7月半ばまでの放射性セシウム137の海洋への流出量は2.71京ベクレルであり、東京電力が6月に発表した推定値940兆ベクレルの30倍であると試算している。これは、福島原発付近の3月末から4月上旬までの海水中セシウム濃度値の推移を根拠としている。

もう一つは、ノルウェーの研究者がまとめてアトモスフェッリクス・ケミストリー・アンド・フィジックス・ジャーナルに掲載したもので、4月20日までに大気中に放出されたセシウム137は3.6京ベクレルと推定している。その放出量の19%が国内に、残りの大部分は海に落ちたと推定している。注目すべきは、日本政府の見方と異なり、4号機の使用済み燃料プールから大量の放射性物質が漏れたとの見解を示している点であり、4号機への放水を始めた直後に、放射性物質の量が大幅に減ったことを根拠として挙げている。

いずれも試算値レベルであるが、多面的な検証をする試みは価値がある。

 

1号機が爆発したのが3月12日、3号機爆発は3月14日、3月16日未明には4号機で火災発生という情報もあった。使用済み燃料は1号機392本、2号機615本、3号機566本、4号機は1535本が存在していたが、使用済み燃料プールへの放水が始まったのは、3号機へは3月19日(by東京消防庁)、4号機へは20日8時(by自衛隊消防車)、22日17時(byキリン)、1号機へは3月31日午後(by大キリン)であった。この対応も遅かったと言わざるを得ない。
4号機への放水は自衛隊の消防車により20日午前8時から80トンほど行われたが、1400トンの燃料プール容量に対して80トンが意味のある量であったか否かは微妙である。
いずれにせよ、使用済み燃料プールにも着目したノルウェー研究者の見解はきちんと評価が必要である。

 

放射性物質放出の3大原因は、燃料がメルトダウンを続けていた圧力容器、過熱した使用済み燃料プールからの放出、冷却のために注水された汚染水の漏水の3つであろう。前者2つが大気への直接的な放出原因となっている。

3月15日時点の大気への放出量は毎時2000兆ベクレルと推定されている。毎時2000兆ベクレルということは、24時間の放出量は4.8京ベクレルという膨大な放出量であったことが分かる。仮に対策の実行が5日間遅れたとすれば、4.8×5=24京ベクレルの放出が食い止められなかったことを意味する。3月11日以降の政府と東電の初動遅れ、すなわち、冷却の遅れ、放水の遅れ、汚染水止水の遅れが総放出量に効いている度合いが数字から分かる。この放出で、福島の大地と近海を広範囲に汚染してしまった....

放射性物質の放出量は多面的に検証が必要である。もちろん、日本の国益のために出せない情報もあるだろう。意図的に隠している情報もあるだろう。しかし、放射性物質の拡散が早期に止められなかった原因と、何が判断遅れの根本原因であったのかを曖昧にすることは許されない
福島事故の反省から生まれた具体的な施策が、他の原発へ展開されたという話を聞かない。原発反対という感情論ではなく、客観的に定量的に事実究明を行い、他の原発において用意すべき具体的な備えと、電力会社や監督官庁の必須改革ポイントを導出して欲しい。

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震災番付 実は放水の判断は東電丸投げか

2011/10/25 04:00

 

前頭十枚目(続編)

 

このブログ、震災において機能したものと、機能しなかったものを対比して、その裏にある日本人の強みと弱みを分析しようとしています。
前回のブログでは、原発への放水活動手段を選ぶプロセスの不可解さを取り上げました。

整理すると、

・効果のない放水(自衛隊ヘリ、機動隊の放水車)を指示したのは、東電、経産大臣、防衛大臣

・効果のある放水設備(キリン)の投入を遅らせたのは、東電

・効果のある放水活動を初めて実施できたのは、東京消防庁

・効果のある放水方法(キリン)を提案したのは民間企業であり、それを政府に取り次ぎしたのは野党議員

以上が事実である。

これらの事実関係から、政府(原発対策統合本部)は結局、東電任せで、各大臣は東電の要望を関係省庁へ伝言、取次ぎしていたに過ぎないことが浮かび上がる。
国家公安委員長から機動隊に、防衛相から自衛隊に、という具合で。
統合本部の政府側メンバーが、主体的に具体的な放水手段の情報を集め、優先順位を決め、これを東電に指示していた形跡はない。(統合本部には議事録すらない)
統合本部といいながら、結局、東電に丸投げしていただけではないか?

「おい東電! 事故を起こしたのはお前のせいなんだから、対策をさっさと考えろよ」という空気が支配していたのが透けて見えてくる。

何故、意味のない自衛隊ヘリの放水を実施させたのか?

何故、中国企業への大キリン提供要請を、わざわざ東電社長名で出させるのか?

何故、東京消防庁は、自衛隊よりも高い被爆リスクを負って3号機への放水活動をさせられたのか?

 

 

批評し、尻はたたいているが、具体的な方法は自らは出さない。批評や批判は得意だが、自らが責任を引き受ける覚悟はない
事故を起こしたのは東電、東電に責任は取って貰わなきゃ困る、そのとばっちりをが食うのは嫌だ。あまり具体的に指示しすぎると、その結果責任を負うことになる。万が一怪我人や死者が出た場合に、責任を取れる人がいないから実行しない、尻をたたいているレベルが無難だ、ということか。

最初から、「各号機の燃料プールに数百トンレベルの注水をせよ」というクリアな目標が共有されて一丸となって行動していれば、無駄な放水も、パフォーマンスだけの放水もせずに済んだろう

最初から、「最終的な責任は全て自分が取る。考え得る最大限のことを考えてくれ、提案してくれ」と言える胆力のあるリーダが存在していれば、事態はまったく異なったものになっただろう。

首相が東電に乗り込んで原発対策統合本部なるものを設置したのが3月15日午前。これは、「政府と東京電力とが場所的・物理的にも一体化し、現地の情報を同時に、一体に受け止め、それに対する対応を一体的に判断し、かつ指示を出していく」ことが目的と発表されている。しかしながら、一体に受け止め、一体的に判断をした結果がこれだろうか?
海江田経産相、勝俣東電会長、清水東電社長、細野首相補佐官、その他大勢が会議室でコの字型に集まっている御前会議である。想像してみてください。そんなメンバーが集まって実質的な議論ができる雰囲気になったのだろうか?

そんな空気に支配され、個々人の能力が麻酔薬のように眠らされてしまうのが日本人の組織である。
手柄がどちらに帰属するか、失敗した場合に誰が責任を負う形になるか、世間からはどう批評されるか、自分の責任範囲を超えた余計なことではないか、わざわざ自分がやらなくてもいいんじゃないか、とか、そんなことばかりに敏感な、政治屋と官僚達がはびこっていたのではないだろうか?

真のリーダを輩出することができない日本人の集団、そこに潜んでいる日本人の行動パターンは、残念ながら民主党議員の震災対応組織でも繰り返されてしまったのではないだろうか?

皆さんのコメントもお待ちしてます。

 

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震災番付 原発への放水活動(○コンクリート注入車 vs ×機動隊放水車)

2011/10/22 21:31

 

前頭十枚目

東 《機能したもの》 コンクリート注入車による原発への放水

西 《機能しなかったもの》  原発建物まで届かない機動隊放水車派遣 

 

自衛隊の放水量について記載を修正しました

 

1号機が爆発したのが3月12日、3号機は3月14日、3月16日未明には4号機で火災発生という情報もあった。
各号機には使用済み燃料がプールに(4号機は1500本)存在し、その露出と溶融を防ぐことも急務だった。
(ソースはhttp://www.meti.go.jp/press/20110317008/20110317008-4.pdfによる)

どうやって、確実に水を巨大な原子炉建屋に届けるか? 可能な方法を総動員しなければいけない状況だった。

 

最初の放水らしい放水は、3月17日午前の自衛隊ヘリによる空からの放水だった。北澤防衛大臣から陸上自衛隊に放水の要請があったのが3月16日で、3月17日に実施されるまでに3号機の爆発から3日間かかった。1回の放水量は7.5トンと小さいうえ、風に飛ばされて焼け石に水だった。

次に、投入されたのは警視庁の機動隊の放水車だった。3月16日に経済産業省の要請(東電から経産省を通じて警察に要請したというのが正確らしい)を受けて、警視庁に出動指示があった。放水を開始したのが3月17日の午後7時であった。残念ながら、水が風に飛ばされて、届かなかった。
当初、警視庁は放水車のみを引き渡したが、その後、操縦に習熟した警察官の派遣も依頼されたため、健康被害が生じないことを条件に、機動隊員ら十数人を派遣したという。警視庁・警察庁で編成された部隊は17日未明に現地入りし準備を進め、放水を開始したのが3月17日の午後7時であった。
放水量は44トンまたは4トンだったとの報道もあるが、いずれにせよ、量としては焼け石に水だった。

次に、自衛隊は、計11台の特殊消防車を現場付近に待機させた。この自衛隊による放水が始まったのは同じく3月17日午後7時だった。こちらの放水は届いた、らしい。当初11台をホースでつなげて海から取水しながら放水する予定だったが、現場の放射線量が高く台数を5台に限定した。結果、18日の総放水量は5台で30トンレベルに過ぎなかった。

(前回のブログでも記載した)東京消防庁に関して(菅首相から石原都知事へ)要請があったのが3月17日、こちらの放水が3月19日に始まった。東京消防庁の設備は、地上22メートルから放水が可能な屈折放水塔車、石油貯蔵施設や工場火災に対応し毎分5トンの放水が可能な大型化学車、海や河川から送水できる遠距離大量送水車、NBC(核・生物・化学)災害に対応する特殊災害対策車、40メートル級のはしご車など計30台だった。
さすがに火消しのプロである。3号機に対して放水が行われたが、毎分3トン以上の水を海からひくことができたはずで、連続10時間運転で1800トンの注水ができたはずである。しかし、3号機の爆発から5日を要した。

22日17時になって4号機の使用済み燃料プールに、長さ58メートルのアームを備えた生コン圧送機(通称キリン)を初めて使い、約3時間にわたり放水した。ピンポイントに水を届けるという方法で、これがもっとも有効な手段となった。3時間で120トン(毎分2/3トン)の放出量だった。

最後に、東京電力が中国企業「三一重工」から提供を受けた60メートル以上のアームを備えた大型の生コン圧送機(通称大キリン)が31日午後1号機の使用済み燃料プールに向けて初めて放水した防衛省によると、放水は午後1時ごろから約3時間行った。東電の清水正孝社長名義の書簡が在中日本大使館を通じて19日、三一重工に届いたという。20日に上海に送られ、大阪港に着いたのが24日だったという(ソース:サーチナ)

 

このプロセスについては、既に多くの記事で不可解であるとの疑問が投げかけられている。

(1)効果の小さい手段を最初に投入し、もっとも効果のある手段が後回しにされている

(2)燃料プールの容量に対して放水量が小さすぎ、科学的に考えれば効果の無いことが明白な、いわば最初から無駄だと分かっていることをやっている

(3)生コン注入車の投入にあたって、複数存在している候補から不可解な選択が行われている


(1)機動隊の放水車は、所詮、過激派をやっつけるための放水車だから、水の飛距離は50~100メートル。タンクの容量は4千リットルで、1回の放水は約2分しかできないという。これが最初に採用されるべき手段だったのか?

(2)各号機の燃料プールの容量は1400トンである。ここに千本を越える使用済み燃料の発熱で水が蒸発し続けている。数トンの水を注入して燃料プールの水温が何度下がるのでしょうか? 小学生でも解ける問題なのに、なぜ危険を冒してまで効果のない放水活動が行われたのか?
振り返れば、意味のある量の注水が初めて成功したのは東京消防庁の放水だったことが分かる。(この人たちの素晴らしさは前回述べたとおり)

(3)三重県四日市市の建設会社「中央建設」の長谷川社長が国内に3台しかないという“新兵器”2台の提供を3月17日国に申し入れた。この取次ぎをしたのが野党公明党の地元議員だったという情報がある。しかし政府および東京電力の了承を得られず、20日まで待たされた。(最初は東電に電話をしたが、ずっとつながらなかったという) この時点で大臣は機動隊や自衛隊に放水の準備を指示しているにもかかわらず、である。何故、可能な限り有効な手段を集めようと思わなかったのか?
また、東電社長が三一重工に提供を依頼したのが19日だとすれば、国内の保有者から提供の申し出があったのに、わざわざ遠い中国から輸送するという手段が選ばれたことになる。海路で輸送するだけで何日もかかることが分かっているのに。

 

中央建設が保有していたのはドイツ製で折りたたみ式の車載アームは最長52メートル。国内にあるポンプ車の中では最長のもので、国内には3台しかなく、そのうち2台を同社が保有していた。また、この間に、実は横浜から輸出される予定だった別の1台を接収し、原発に投入していたようである。最終的には、この1台が故障したとか、待たされていた中央建設に要請が正式にあったのが3月20日夕方だった、という情報もある。このプロセスにおける判断、出動要請を出したり引っ込めたりしたこと、横浜にあったベトナム企業保有の1台の派遣を先にした理由、同時に中国政府に大キリンの提供を要請している理由など、統合本部の判断は謎だらけで、週刊ポストは批判的な記事を書いている。
その真偽は解明を待たねばならないが、この非常時に政治的な駆け引きをやっていたのだとしたら、万死に値する。

 

でも、このブログは、個々の事象と当事者を批判するだけではないようにしたい。首相が乗り込んで原発対策統合本部を設置したにもかかわらず、そこに居合わせたメンバーは何故このような判断しかできなかったのであろうか?
次回、その深層をもう少し掘り下げて考えてみたい。

 

 

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震災番付 東京消防庁の放水活動と、高濃度汚染水のたれ流し

2011/10/17 22:34

 

前頭十一枚目

東 《機能したもの》

福島原発で放水活動に従事した東京消防庁

西 《機能しなかったもの》

新聞紙と吸水ポリマーによる高濃度汚染水の海洋への流出防止策

 

末尾の計算式を加筆し更新しました。

 

3号機が爆発したのが3月14日午前11時。使用済み燃料プールへの注水と冷却が急がれた。東京消防庁のハイパーレスキューが参加したのは3月18日だった。実際の放水活動は、3月19日未明から開始された。

 

(この間の政府の判断の遅さは今回は述べないが)地方自治体の消防隊が原発災害の任務にあたるのは異常である。職務規約にも、雇用契約にも明確には書いていないだろう。彼らは、1個人としてそれを拒絶することもできた。しかし、彼らは放水活動を敢行した。日本人としての使命感がなければ遂行できない役割だった。

放射能は目には見えないけれど、実態としてはほとんど戦場に近いレベルの危険度だったと言える。(客観的にみても、PKO派遣されている自衛隊より危険!)
その勇気と、訓練された隊員達による見事な活動は素晴らしかった。
3号機が水素爆発を起こした後のがれきが散乱する中、彼らは海から水を汲むホースを回すために苦闘した。がれきで道がふさがれていたため、海から300メートルのホースをつなぐ最短ルートは諦め、800メートルに変更した。
しかも、3号機直前の350メートルは車外に出て手作業でホースの接続作業を実施した。一番線量が高いエリアである。
この臨機応変な対応能力は、現場での状況判断能力が訓練された人達でないと完遂できない。


一方で、
2号機取水口付近で、縦1.2メートル、横1.9メートル、深さ2メートルのピットの側面に亀裂が入り、そこから高濃度汚染水が海に出しているのが確認されたのが4月2日午前9時30分だった。

その後の対応は、理由は不明だが、素人の対応だった。

2日夕方からピットにコンクリートを流し込むという策がとられたが、止水効果はまったく無かった。3日になると、吸水ポリマーという、紙おむつに使われている素材と新聞紙(!)を使った。これも失敗だった。5日午後3時過ぎになって、漸く3000リットルの水ガラスが立て坑の下に敷設された砕石層に注入された。流出は6日午前5時頃に止まったと発表されている。
(東電の推定によれば)止水されるまでに520トンの高濃度汚染水が出し、その放射性物質は4700兆ベクレルだった。これは4月4日に意図的に放出された低濃度の汚染水に含まれる量の3万倍で、この量が5日間で流出した。
そもそも、いつから出していたのか、という点は、4月1日からと推定される、としか公表されていない。また、この縦坑以外に出している穴がないのか調査しました、という報告はない。
東電は、3週間後の4月21日に原子力安全・保安院に報告を行った。その内容は経産省のサイトに掲載されている。

http://www.meti.go.jp/press/2011/04/20110425002/20110425002-2.pdf
読んで貰えば分かるとおり、極めて事務的な事後報告資料である。

 

これで済まされて良いのだろうか?

 

見逃せない問題が3つある。

第一に、その初動においてコンクリートとか、吸水ポリマーとか、水を止めるという目的に対して、まるで素人の対応をしていること。水ガラスは地下のトンネル工事など、止水が必要な土木工事では常識的な手段。土木の専門家であれば、すぐに思いつく止水対策は、何故即座に実行されなかったのだろうか? 
放射線で現場に近づきにくいという状況判断があったと推定されるが、冷却のために大量に注水が続いている状況では、紙おむつの材料で止水ができる流量ではないのは明らかである。最初から土木専門家を投入していれば、流出量は1/3で済んだかもしれない。原発事故では1時間の対応遅れが致命傷となり得るのに。
5日間の出来事であったが、政府や東電が、原発事故を収束させるため英知の結集力も、タイムリーな実行能力も著しく欠いていた残念な事例となってしまった。

第二に、起きてしまったことは仕方がないとしても、この報告は、流出した総量はこうでした、という事実を追認して報告するのみであり、そもそも何故汚染水が縦杭にあふれたのか、そもそも何故流出を止めるのに5日間もかかったのかという点に、何の言及も反省も見られない。
原因の推定、今後起こりえることの想定、事前にとっておくべき対応策を立案するのが監督するお役所の役目ではないですか? 東電の報告をただ鵜呑みにし、追認するだけのお役所仕事。監督する立場として、もっと指導すべきことがあるでしょう。このお役人達、本当に存在価値がない。
この時期の政府や保安院の言動は、原発で発生した事象の追認発表をするだけで、「詳細は確認中です」、「原因は分析中です」、「ただちに健康に影響があるとは考えられない」に終始していた

 

第三に、汚染水流出が続く5日間、東電の組織として、誰がどのような判断をし、どのように指示したのか、主語が一切不明である。最終的に水ガラスを注入したのが、東電の社員であったのか、下請け業者であったのかも分からない。
総責任者たる社長は、どのようなリーダーシップを発揮したのだろうか? これは、組織の中でリーダや責任者をあいまいにする行為である。
普通の民間企業であれば、平社員にテレビカメラの前で説明させるなんてあり得ない。自分自身がカメラの前で語るのが当然でしょう。

・・・・・・・・
使命感に満ち、責任者と指揮系統が明確、かつ現場の情報を重視し、各人の現場における状況判断が的確だった集団。
一方、リーダシップ不在で、不的確な状況判断を繰り返し、結果責任を不明確にする巨大組織。そして、報告で事実追認するだけのお役所。
言い換えれば、主語も、主体性も見えてこない集団。

両者の対応能力の差が、本質的にはどこに起源があるのかを考察しなければならない。

 

猪瀬直樹氏のブログにも現場を知らずに遠いところから指揮をする対策本部と消防庁のやり取りが書かれているので参考になる。


我々は、単に、首相、東電社長、経産省を糾弾をすることで、終わらせてはいけないと思う。メディアも含め、この国を作り直す方向性を考えることに国民のエネルギーを向けて欲しい。

 

・・・・・さらに追記します

4720兆ベクレルは天文学的な数字で全然ピンと来ないので、比較を入れてみる。

日本原子力研究開発機構は、海洋へ放射性物質の放出量が3月21日~4月30日で1.5京(けい)ベクレルを超えると試算した。これは、4720兆ベクレルに、大気からの降下分を加えたもので、結果、3倍を超える値になった。逆に言えば、海洋への放出量の1/3がこの垂れ流し事件によるものである。

一方、原発から空気中に放出された放射能は、3月15日時点では、毎時約2000兆ベクレルだったと試算されている。
8月には、その200万分の1の毎時10億ベクレル、10月には毎時1億ベクレルになったという。
水素爆発直後のとてつもない放出量に比べれば4720兆ベクレルは小さくみえるが、8月時点の毎時10億ベクレルで計算すると、4720兆ベクレルは538年分に相当する放出量である。

 

いずれにせよ、放出量の計算値は、どれも推定ばかりで怪しい。もっと正確な検証が待たれている。

 

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震災番付 帰宅難民の冷静な行動と、都内大渋滞

2011/10/09 23:10

 

 

震災番付 前頭十二枚目(ちょっと追記)


東 《機能したもの》   地震当日の、帰宅難民の冷静な行動

西 《機能しなかったもの》 地震当日の、東京の道路交通大渋滞 

 

10月9日の21時からNHKで、「シリーズ東日本大震災“帰宅困難 1400万人”の警告」が放送されました。被災地報道が99%を占めるなか、311における首都の混乱を正面から取り上げた報道は価値がありました。但し、国、都道府県、企業、公共機関がなすべき道筋について、もう少し突っ込んだ提言が欲しかったと思います。取り上げるべきは徒歩帰宅者という人の移動の問題だけではなかった。特に、道路交通情報センターに突っ込んだ取材をして道路交通麻痺についての原因分析を試みて欲しかったです。私は、311の夜、オフィスに居残って(帰宅できずに)、パソコンでJARTICのWebサイトを夜中までチェックしていましたが、全ての幹線道路が真っ赤な印で埋め尽くされた画像が午前3時頃まで続いていたのは非常な事態でした。(追記終わり)

 

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都内の幹線道路は、大量の徒歩帰宅者で埋まった。とにかくすごい人の量だった。幅広の歩道だったはずなのに、そこが3列、4列の人で埋め屈され、かつ前の人との間隔が1mにもならない。その人々が、老若男女、それぞれ1時間、3時間、6時間かけて自宅に辿り着いた。
途中、その行列は牛歩状態でなかなか前に進まなかったり、後ろから押されたりもしたが、怒号が飛び交うわけでもなかった。コンビニの商品は棚から無くなってしまったが、商品の争奪が起きるわけでもなかった。
途中、街道沿いの家々は自主的に道ゆく人にトイレを貸してあげたり、食事をふるまったりした。しかも、携帯電話はまったく通じず、メールも届かない状況で。この冷静さは、すごいことである。

運動会の行進なみの密度だったが、運動会の行進以上の整然とした歩みだった。

政府に指示された訳でもなく、平然とこれだけの対応能力を示す国民は世界で日本人とドイツ人だけだろう。
日本人の血の中には、特有の自己抑制的な忍耐力、が流れているような気がする。
裏返せば、「あんな首相が首相の座に居座っていてもクーデターが起きる兆候すらない」という過度の寡黙さという弱点にもつながっていると思うのだが。

 

一方で、
3月11日夕刻より道路の渋滞は始まり、東京都内の全ての道路はクリとも動かない大渋滞となった。10分で数メートルしか進まないような大渋滞だった。都内が救急車も消防車も動けないような機能不全に陥ったのは、見逃せない事実である。この渋滞は翌朝の午前3時ぐらいまで解消しなかった。これが都内でも火事があちらこちらで発生するような地震であったら、どのような混乱になっていたのだろうか?

首都高が閉鎖となったことだけで、一般道は飽和する。(実は首都高管内では高架の橋げた接合部などが10箇所ほど破損した) 加えて、徒歩帰宅者が交差点を埋め尽くして、さらに状況が悪化した。信号の停電で交差点内で車が立ち往生した。想像するに、東京は、神奈川との県境を流れる多摩川にかかる橋の本数が極めて少ないため、西へ向かう車は、橋へ殺到して、そこがボトルネックとなっていただろう。
鉄道の運行情報は比較的容易に入手できたが、正確な道路交通情報は入手できず、電車が止まっているならタクシーで、と判断してしまった人もいただろう。


行政は、大災害発生時の帰宅難民対策にのりだしたが、今のところ、縦割り行政で断片的な施策を打ち出すばかりに見える。
大量の従業員を抱える事業者、避難所、道路、鉄道、消防署、病院、報道機関等々に対する包括的な対応マニュアルが必要である。
例えば、「車は左側の路肩に寄せ、カギをつけたまま、ドアをロックせず、歩いて避難する」のが国交省の対応マニュアルだそうだが、なんでだろう? 全てのドライバーがそんなことをしたら道路が麻痺するのは明らかではないですか? 
人の避難所だけでなく、車の避難所を作らなければ麻痺しますよ。しかし、その場所を用意するのは自治体の仕事であり、国交省の知るところではない、という縦割りだから合理性を欠く対応マニュアルしか出てこない。道路を所管する立場では、それ以上書けないからか? 電力会社は経産省の管轄だが、停電でもバッテリーで動作する信号機を考えるのは国交省、実際に設置するのは県警、では、いざというときの緻密なシステム作りが進まないだろう。
こんなときこそ、政治主導で、既存の官公庁間の壁を壊す横断的な枠組みを作って貰いたい。今回の混乱を徹底的に分析して、体系的な施策を立案して貰いたい。

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